被災地に「区切り」はない

産経 社説コラム 04/19

 東日本大震災から9カ月余。家や家族や仕事、普通にあった風景。月日がたつにつれ、被災者には「いくつもの喪失感」が重くのしかかっていった気がする。

 今年も残りわずかとなった。被災者にとっては区切りなどつけられない心境だが、全国から、世界から届けられた「東北を助けよう」というメッセージにどれほど勇気づけられたことだろうか。

 ただ、新しい年が、被災地が恐れている「区切り」となってほしくはない。遠く離れた場所にいるとどうしても記憶が薄れてしまいがちだ。「頑張る東北」を思う気持ちが年を越すことで切れてしまわないだろうか。被災地にいるひとりとして気になってしまう。

 観光業者や経済団体などと連携し、復興への取り組みを行う東北観光推進機構の三浦丈志(たけし)推進本部副本部長は「あってほしくはないが」と前置きしたうえで、阪神大震災の2カ月後に地下鉄サリン事件が発生し、首都圏や西日本などで震災への関心が薄れたことを挙げ、「今後、首都圏などで大きなニュースがあったらどうなるのか」と風化を懸念する。「人の記憶はそんなもの」という物分かりのいい答えは今はいらない。もちろん、報道の責務として伝え続けることは当然だ。

 

人間は何かにつけ区切りをつけたがる。

区切りをつけるのが悪いと言っているのではないが・・・

つけない方が良い区切りもあると思う。

 

例えば、原発再稼働である。

「地元の範囲」とか「安全マニュアル」とか・・・私から見れば結構いい加減な決め方だと思う。

 

地元って何だ?建設予定地さえ良ければいいのだろうか?

同じ日本国内の原発問題ではないのか?

確かに設置された所は現実にひどい被害を受けている。

然し、日本国内の国民も原発の被害を多少なりとも受け、今後もそれを引きずって行かなければならない。

日本国の国民全体が地元だとも言えよう。

否、地球全体の問題でもあろう・・・

 

安全マニュアルにしたってそうだ。

地震や津波に耐えられるマニュアルが「安全マニュアル」なのだろうか?

新たな災害が起こり「想定外の出来事」として、再びマニュアルを見直す。

原発と言うのはそんな発想で片付けてはならない「科学の置き土産」なのでは無いか。